オーデマ ピゲ ブティック銀座


オーデマ ピゲ「仕上げと装飾」の極限を求めて 『クロノス日本版』編集長―古川直昌

誠意あるメーカーは、一般の人々が見落としてしまいがちな部分に光を当てるものだ。

オーデマ ピゲ(以下AP)が2010年に上梓した「Finitions&décorations horlogères」(邦題『ハイエンドな時計の仕上げと装飾』)は、読んで字のごとく、ムーブメントを構成する地板や受け、輪列、ネジなどのパーツに施される面取りなどの仕上げと、エングレービングやペルラージュ、コート・ド・ジュネーブ、ギョーシェといったさまざまな装飾技法に焦点を絞って編纂された、世にも稀な1冊である。
図版をたっぷり盛り込んだこの書物のページをゆっくりめくっていくと、多くの時計愛好家は「ハイエンドな機械式時計の真価とは、高精度や複雑機能を有しているかどうかではなく、手作業の仕上げや装飾がいかに多くムーブメントに施されているかどうかにある」とAPが大胆な定義をしていることに気づかされる。

一方、APとその子会社であるオーデマ ピゲ ルノー・エ・パピ(以下APRP)のアトリエを何らかのきっかけで訪問したことがある幸運なディーラーやエンドユーザー、そして私たちのようなメディアは、毎年のように革新的な複雑時計をリリースし、「グランソヌリをシリーズ生産できるのは我が社のみ」と豪語するAPRPのテクニカルディレクターであるジュリオ・パピの、静かながら確信に満ちた口調を思い出す。複雑時計の製作者集団的位置づけが強いAPRPの代表らしいコメントだ。

しかし、APRPの取材がようやく認可されて彼のアトリエを始めて訪れた1999年当時、今や時計愛好家の間ではしっかりと根付いたAPRPのパブリックイメージとはいささか趣を異にする、つまり「ハイエンドな機械式時計の芸術性は、ムーブメントの手作業による仕上げと装飾に集約される」というAPの精神を先取りするような光景に出くわしたのであった。
ワイヤー放電加工機やCNCマシンを使ったパーツの製作過程をひとわたり見学した後、会議室に通された。待つこと10数分。ジュリオ・パピは満面の笑み――それは子供のイノセントな微笑みのようだった――を浮かべながら、「あるもの」を私の眼前に差し出した。それは、ルーターの尖端にセットされた、ブリッジ、クシバといったパーツ類であった。「よく見てください。これらのパーツに施された仕上げは、我が社特有のものです」。例えば、いくつもの複雑なコーナーが付けられたブリッジの側面仕上げで最も難しいとされるのが、ふたつの傾面が交差して内側で落ちあう「戻り角」(コワン・レントラン)。接点のコーナーを1本の線に仕上げるこの面取り作業は熟練した技能を要する。つまり、内側に向かって鋭いコーナーに「戻る」のは極めて難しく、他のコーナーと違って機械切削やプレス加工で得ることはできない。技師が磨き棒や修正へら、砥石などを駆使して行う完全な手作業に頼るよりほかに方法がない。側面の面取りは極めて重要な作業である。最高の精度で側面の面取りが施されていれば、複雑な光の反射面が形成され、ムーブメントの美観に完璧な印象を与えることになる。
「光が織り成すコントラストの妙味。ごくごく一部の、最高級のムーブメントにしか見られない仕上げです。どうかこの部分を、我が社の大きな特徴として喧伝してください」
コマーシャリズムとは殆ど無縁なジュリオ・パピの語気がこれほど強く響いたのは、これが最初で最後だったような気がする。そういえば、この時に彼が一緒に見せてくれたAP専用のリピーター用ゴングも忘れられない。

1本のワイヤーを使って溶接することなく成型される独自のゴングは音の浸透性が高く、済んだ音色が奏でられる。溶接した部分があると、ハンマーの振動が部分吸収されて音色が沈んでしまうのだ。これを嫌ったジュリオ・パピは100年前のリピーターゴングを研究して、音色に淀みのない一体成型のゴングを完成させた。仕上げとはまったく関係のない話だが、複雑機能にプラスアルファの「何か」を加えていく作業は、緻密極まりない側面の面取りやポリッシングの重要性に通底するのではないか。

それから11年の歳月が経過した2010年の春、私はル・ブラッシュにあるAP本社屋のムーブメント設計部門を訪れていた。向かいに座っているのは、08年にAPRPからAPに転籍した浜口尚大氏。ジュリオ・パピの薫陶を受けたスイス時計業界でも指折りの日本人エンジニアである。彼がAP唯一の量産ムーブメントであるCal.3120のスケルトンバージョンであるCal.3129の開発を命じられたのは、09年10月のこと。「翌年1月のSIHHにプロトタイプを2本完成させよ」といういささか無理な注文であった。

APは伝統的にムーブメントを肉抜きするスケルトン加工(アジュラージュ=透かし模様)を得手とする。しかし、プロトタイプ以外は、1から10まで糸鋸などで切り抜かれるわけではない。もちろん、ワイヤー放電で「ざくっと」簡単に切れる代物でもない。浜口氏は世間に流布している「スケルトン加工の俗説」にため息をつきつつ、ごく簡単にではあるがCal.3120と3129の違いを説明してくれた。
「まず3120にあるカレンダー表示を取ることによって生じるフライス盤で切った不要な穴を地板から排除し、軸受けもスケルトン用に新規設計変更しました。肉抜きして巻上げ効率が下がるローターは、角度を微妙に調節しながら、ムーブメントの外周に重心が傾くように工夫を凝らしました」
果たして、浜口氏の突貫工事の甲斐あって、Cal.3129を搭載した「ロイヤル オーク スケルトン」はなかなかの佳品に仕上がった。過剰な彫金は影をひそめ、スレートグレーを基調色にした簡潔な装飾でまとめられている。当世流のモダンなスケルトンウォッチ、ロイヤル オークのスポーティな印象を崩さない程度の軽快さが目をひく。設計者が仕上げや装飾のために腐心する話を聞けるのもまた、「ハイエンドな機械式時計の真価とは、高精度や複雑機能を有しているかどうかではなく、手作業の仕上げや装飾がいかに多くムーブメントに施されているかどうかにある」と公言するAPらしい逸話ではないか。
いずれにせよ、ここで披露したエピソードには、実地でダイレクトに体感したゆえの主観的要素――時間の経過も多分に影響している――が含まれている。APのハイエンドな機械式時計の真価を知るためには、まず冒頭にあげた『ハイエンドな時計の仕上げと装飾』を入手して枕頭の書にするくらい読み込んでほしい。しかる後に、APを取扱っている小売店や百貨店に足を運んで、製品をためつすがめつ眺めてもらいたい。文字盤、ケース、そしてムーブメントへ……。小宇宙とも称される機械式時計。そのスペクタクルを体感するのは、大地に寝そべって夏の夜空を眺めるに匹敵する。複雑に入り組んだパーツに丹精こめて与えられた「光彩」を目にした瞬間、あなたはきっと、オーデマ ピゲが言わんとしていることの一端に触れることができるはずだ。

古川直昌(ふるかわなおまさ)

『クロノス日本版』編集長。1968年生まれ。『世界の腕時計』『ヴィンテージウオッチ』『TIMESCENE』など数多くの時計専門誌で編集者・ジャーナリストとして研鑽を積み、2005年より現職。ジュネーブ時計グランプリ審査員(07-08年)。

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